1848年(嘉永元年)、米国カルフォルニアが発端となったゴールドラッシュが世界中に波及し、一獲千金を夢見た人々が世界中をうごめいていました。
そんな中、鯛生金山の歴史は1894年(明治27年)、この地を通りかかった干し魚の行商人が白い小石を拾い、近くで操業中の金山技師に見せたことから始まります。
こうして発見された鯛生金山は地元の田島儀一氏と鹿児島の南郷氏によって、明治31年から小規模ながら本格的な採掘がはじめられました。
1918年(大正7年)から、新たに鉱業権を得た英国人のハンス・ハンター氏により、当時としては類を見ない近代的な設備が導入され、大掛かりな採掘が開始されることになりました。ハンター氏は多くの外国人をこの地に招き入れますアメリカ、ロシア、アジア各地の人々が「東洋のエル・ドラード(黄金郷)」鯛生に集り、当時の日本では考えられないほど国際的な賑わいをみせたのです。金山周辺には事務所、水力発電所、病院、小学校、配給所、社交クラブ、カフェ等が次々と建ち、鉱山町が形成されました。
1929年(大正14年)、ハンター氏から木村鐐之助氏に経営を引き継ぎました。大規模な探鉱を行い、ついに大きな富鉱脈を発見。その後も新鉱脈の発見は相次ぎ、産出量も増加し、昭和13年には年間2,3トンを記録し「東洋一の産金鉱山」として名を馳せたのでした。
1933年(昭和8年k)から5年間の全盛時代には、従業員約3,000人を数え、九州はもちろん全国から労働者が集まりました。村内には映画館うあ飲食店が建ち並び、九州の一山村にはまれに見る活況を呈したのです。
しかし、第二次世界大戦の勃発とともに、金産出量は下降線をたどり、1943年(昭和18年)に、国の金山整備令により保抗鉱山となり、昭和19年休山となりました。
戦後1956年(昭和31年)鯛生鉱業K.K(住友金属鉱山の子会社)によって新たな操業本格化しましたが、その後の探鉱でも有望な鉱脈は発見できず、1972年(昭和47年)に閉山しました。
当時の様子をしのばせる地底博物館として蘇ったのが1983年(昭和58年)。明治以降、多くの苦難を乗り越え、国の近代化に貢献したとして、鯛生金山は2007年(平成19年)経済産業省の「近代化産業遺産」に登録されました。
そして2002年FIFA日韓ワールドカップ時において、再び中津江村は日本中の注目を浴びます。カメルーンのキャンプ地に選ばれた中津江村とカメルーンとの心温まる交流は今もなお続いています。


 ボイラー      昭和10年ごろの作業風景  昭和16年ごろ鯛生金山野球部      

昭和15年ごろ大運動会  昭和58年オープン
             松本清張氏来村



若き日の
ハンス・ハンター氏

ハンス・ハンター氏についてはこちらページに詳しい記述があります。

ハンター氏に招かれた
鉱山技師たち


幹部社員の社交倶楽部



 配給所