鯛生金山殉職者慰霊之碑・北村西望作(レリーフ)

鯛生金山殉職者慰霊之碑に飾られた北村西望作のレリーフ3枚の画像

鯛生金山殉職者慰霊之碑は、長崎の平和祈念像の作者として知られる彫刻家、北村西望氏(1884年~1987年)による当時の作業風景を表現した銅板レリーフが飾られています。
また、資料館では、当時の資料や北村西望氏の作品などを展示しています。

鯛生金山歴史資料館外観
鯛生金山歴史資料館内部

【鯛生金山歴史年表】

1894年(明治27年) 行商人が拾った「白い石」をきっかけに金鉱が発見される。
1898年(明治31年) 地元の田島儀一氏と鹿児島の南郷氏によって採掘が始められる。
1918年(大正7年) 英国人のハンス・ハンター氏により、近代的な設備の採掘を開始。海外からも多くの人が集まり、「東洋のエル・ドラード(黄金郷)」と呼ばれた。周辺には、水力発電所、病院、小学校、配給所、社交クラブ、カフェ等が次々と建ち、鉱山町が形成された。
1925年(大正14年) ハンス・ハンター氏から木村鐐之助氏が経営権を継承。大規模な探鉱を行い、大きな富鉱脈を発見。
1938年(昭和13年) 全盛期を迎え、金の産出量は年間2.3トンを記録。「東洋一の産金鉱山」となる。従業員は約3,000人を数え、村内には映画館や飲食店が建ち並び、村全体が賑わっていた。
1943年(昭和18年) 国の金山整備令により保抗鉱山となり、昭和19年休山となる。
1956年(昭和31年) 鯛生鉱業K.K(住友金属鉱山の子会社)よる操業再開。
1972年(昭和47年) 閉山。
1983年(昭和58年) 地底博物館として甦る。
2007年(平成19年) 経済産業省の「近代化産業遺産」に登録される。

ハンス・ハンター(範多範三郎)Hansaburo Hanter【ハンス・ハンターについて】
英国名Hansaburo Hanter 通称ハンス・ハンター
(1884年大阪生まれ 1947年没)
英国人実業家と日本人女性との間に生まれ、幼少期を神戸で過ごす。その後イギリスに留学。イギリス王立鉱山学校で鉱山学と冶金学を学ぶ。
大正7年(1918年)に鯛生金山を取得し、鯛生金山株式会社(Taio Gold Mines Co., Ltd.)を設立。削岩機、エレベーター、選鉱場、精錬所、火力発電所など、英国製の最新設備を導入し、英国から技師数名を招き操業を開始。金の産出量は大正7年に90kg、大正10年(1921年)に500kg、大正13年(1924年)には1トンに達し、東洋一の金の産出量を誇った。